2009年11月26日
伊藤博文と明治天皇との関係と苦悩
4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に順風満帆であったわけではない。明治10年代、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う面があり、機務六条を天皇に提示して認めてもらっている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
上記のように明治天皇と伊藤との間は、常に順風満帆であったわけではないが、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないことを知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。 日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた。
女子教育
明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立の計画への協力を求められ、これに協力した。
女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。梅子は1885年に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、梅子とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の梅子と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば梅子は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
伊藤博文は日本の幕末の長州藩士として大変有名な方です。
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